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横根稲荷神社 その2 [地域の歴史探訪]

横根稲荷神社のつづき。

鳥居の左手にある馬頭観音碑
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入り口の説明にあった「旗競馬(はたけいば)」は、
近郷近在から見物人が集まって大変なにぎわいだったようです。

図書館で借りた「中和田郷土誌」に、旗競馬に関する記述がありました。
草競馬創始の時期は不詳であるが、横根稲荷の祭礼の行事として行われた。
(略)
またこの競馬は「見合い競馬」「見合いまち」「嫁身のまつり」ともいわれ、日野、野庭、二俣川、今宿、鶴間、俣野など二、三里に及ぶ地域から老若男女が集まり、特に娘は親から「きれいになって行けよ」といわれたそうである。
(略)
馬場の附近は中和田のうちで一番高い所であり、特に南と西は一望に見渡せたところなので、競馬を目指して集まる人がさながら蟻の行列のように見え、馬場周辺の空地は数え切れない程の屋台店や見世物小屋が立ち並び、平たい缶に流し込んだ飴をノミで割って売る「タン切り飴」 新聞紙の三角袋へ赤い字を書いた殻付きの落花生、流行歌を歌って歌詞の本を売る女の人あり、人出をねらって「スリ」も出たそうである。しかしながら日華事変その他世の移りの為か、昭和十一、二年頃を以て行われなくなってしまった。

この後、戦後の農地解放で社有地が大幅に縮小されて
昔の馬場などもすべて無くなってしまったようです。

江戸時代には、幕府によりこの辺は宿場(戸塚)に近い村のひとつとして
人馬を差し出す助郷(すけごう)に指定されていたということなので
そんなことからも草競馬が盛んになったのかもしれませんね。

馬頭観音碑がいくつもあったのも
そんな事情の下で馬たちの供養塔として建てられたのでしょうか。

律令制の下でも諸国の牧から馬を貢上させる制度があったようなので
もしかしたら旗競馬の起源はかなり古いんじゃないかという気もします。


感念井戸のそばに立て札つきの木がありました。
梛(なぎ)って?
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なぎ(大辞林より)
「古くから神社の境内に植えられ、熊野神社では神木とされ、その葉に供物を盛る。また、その葉が切れにくいことから、男女間の縁が切れないように、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった。」

境内の梅の花ごしの空
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(2月3日撮影)

次回は「なぜ出羽三山塔?」にもどります。
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