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なぜ出羽三山塔?(終)  結論… [地域の歴史探訪]

途中、寄り道などして長くなってしまいましたが
このシリーズ(?)は今回で終わりにします。

どうして出羽三山塔がここにあるのか、
結論から言えば、やっぱりわかりませんでした(^^;

平塚市のHPにあった伝承を読んだときは、
もしかしたら大山のおおもとが出羽三山なんじゃないか
なんて思ったりもしましたが、そうじゃないようだし。

大山阿夫利神社と湯殿山の御祭神はともに大山祇神だけれど
伝承によれば大山のほうが歴史は古そうだし。

きのうの記事を投稿後わかったことでは、
大山山頂からは縄文時代とみられる土器など
古い時代の出土品が多数見つかっているとのことです。

さて、関東地方のほかの地域で
出羽三山塔(供養塔)がある所を調べてみたところ、
特に千葉に多いことがわかりました。
八千代市では190基あるという情報もありました。

千葉では、地域ごとに成人男子が順番に出羽三山に参拝(修行)に行く
という「三山講」が江戸時代以降さかんになったようでです。
現在でもまだその風習が続いているところも結構あるようです。

もしかしたらそんな「三山詣で」の風習のある地域の人たちが
大山参詣の行き帰りにこのあたりを往来して
この土地の人にそんな話を伝えていたら…。

何人もの旅人から同じような話を何度も聞くうちに
だったら自分たちの村でもちょっと行ってみようかと
そんな風に思う人たちもいたかもしれません。

平塚市の伝承にあった話も
霊験あらたかな大山詣でをしても雨が降らない、
さて困った、どうしようかという時に
それじゃあ、千葉のほうから来る人がよく話している
出羽三山というところに、最後の手段で行ってみるかと
そんな風だったのかなぁと想像してます。

あくまでも私の勝手な想像ですが。

結局、素朴な疑問は解けないままですが、
ちょっとした好奇心から調べてみたことで
思いも寄らなかった昔の人たちの生活の一端をかいま見れたり
たまたま別の新しい興味深い事実に出会ったりで
「時空間ミステリーツアー」のようで面白かったです。

一番の収穫は、
いま自分が住まわせてもらっている土地には
ずっとずっと昔から、たくさんの人たちがつないできた歴史があって、
その末端に自分もつながらせてもらって、そうして今ここにいるということ、
それが実感できたことでしょうか。
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なぜ出羽三山塔?(3) 大山とは [地域の歴史探訪]

平塚市の出羽三山塔についての伝承では、
干ばつの年に雨乞いを祈願して大山参詣したけれど、
かなわなかったので「最後の手段として出羽三山参拝を決行」したとのことでした。

この文章からすると、
大山にお参りすればたいていの祈願は成就すると思われていたようです。
遠くは東海地方からの参詣者もあったというくらいだし。

それでは、その大山について。

大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のHPには
御祭神や御由緒について詳しい説明があります。
http://www.afuri.or.jp/index.htm
以下は一部抜粋。
御祭神
 御主神大山祗大神(オオヤマツミノカミ)は、またの名を、大水上御祖神(オオミナカミノミオヤノカミ)とも、大水上神(オオミナカミノカミ)とも言い、神威炳焉(つまり、霊験あらたか、ということです)、生活の資源はもちろん、海運・漁獲・農産・商工業など、熱心に祈願すれば、成就しないことはありません。
 さらにまたの名を、酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられています。 大山は、古来よりたびたび神意が現れ、天狗の来住する神山であるとも言われています。
 大雷神(オオイカツチノカミ)、高オカミノ神(タカオカミノカミ)も共に、殖産・灌漑・桑蚕の生業を守護する神で、その神徳(いわゆる、御利益です)は明らかで、生活に必要なあらゆる物資はみな、その神徳によるものだと言われています。
 多くの人智では計り知れない神異からも、大山の霊験あらたかぶりを窺い知ることができます。境内外の摂末社は20有余にのぼり、神徳は高く、神蹟も数多く存在します。

御祭神は湯殿山神社と同じ大山祇神(オオヤマツミノカミ)。
「ワダツミ」が海の神様だから、「ヤマツミ」というのは山の神様ですね。

そういえば、3つ目に見た出羽三山塔の右面に
「山神」と読める文字が刻まれていました。

大山も「桑蚕」を守護する神様としても信仰されていたのは
横根稲荷もそうでしたね。

「ご由緒」は以下のように書かれています(一部抜粋)。
 大山阿夫利神社は、大山の山嶺に三社があり、本社は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)を祀り、摂社奥社に大雷神(オオイカツチノカミ)が、前社に高オカミノ神(タカオカミノカミ)が祀られています。
 摂社の両社は、古くは大天狗・小天狗と言われていました。
 底津磐根(ソコツイワネ 地の底です)に鎮座して、高天原(タカマガハラ 天上の神々の国のこと)に千木高知り座して天下の神蹟と言われているのが、両部時代より大山石尊大権現(オオヤマセキソンダイゴンゲン)と称せられた、本社の御霊体であり祭神です。
(略)
 古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を大福山と呼ばれていました。

「両部時代」の「両部」は「両部神道」のことでしょうか。
両部神道(りょうぶしんとう)
「真言宗の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想。真言密教で説く胎蔵界・金剛界の両部をもって、日本の神と神、神と仏の関係を位置づけたもの。その萌芽は早くにみられるが、鎌倉時代に理論化され、後世多くの神道説を生み出した。両部。両部習合神道。神道習合教。真言神道。」(大辞林より)


「古来よりたびたび神意が現れ、天狗の来住する神山」であることと関係あるのか
大山はUFOが目撃されるミステリースポットとしても有名なようです。
遠くから見ると大山の山頂が三角に見えるのは自然ピラミッドのようにも思えるし。

出羽三山のことを調べていて
いろんなサイトに掲載されている山々の写真を見たのですが
東北の山々には頂上が三角になってる山が多いように思いました。

また、月山から撮った写真の中に栗駒山を撮ったものがあり、
平面の地図からは想像できない眺めで、山脈が向き合ってるようなすばらしい景色でした。
地上は険しい山々で分断されているのに
山の上では神々が隣近所でおしゃべりできそうな、そんな感じ。

栗駒山からは鳥海山、朝日岳、早池峰山、蔵王山なども見渡せて
東北のおへそのような山であることも今回初めて知りました。
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横根稲荷神社 その2 [地域の歴史探訪]

横根稲荷神社のつづき。

鳥居の左手にある馬頭観音碑
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入り口の説明にあった「旗競馬(はたけいば)」は、
近郷近在から見物人が集まって大変なにぎわいだったようです。

図書館で借りた「中和田郷土誌」に、旗競馬に関する記述がありました。
草競馬創始の時期は不詳であるが、横根稲荷の祭礼の行事として行われた。
(略)
またこの競馬は「見合い競馬」「見合いまち」「嫁身のまつり」ともいわれ、日野、野庭、二俣川、今宿、鶴間、俣野など二、三里に及ぶ地域から老若男女が集まり、特に娘は親から「きれいになって行けよ」といわれたそうである。
(略)
馬場の附近は中和田のうちで一番高い所であり、特に南と西は一望に見渡せたところなので、競馬を目指して集まる人がさながら蟻の行列のように見え、馬場周辺の空地は数え切れない程の屋台店や見世物小屋が立ち並び、平たい缶に流し込んだ飴をノミで割って売る「タン切り飴」 新聞紙の三角袋へ赤い字を書いた殻付きの落花生、流行歌を歌って歌詞の本を売る女の人あり、人出をねらって「スリ」も出たそうである。しかしながら日華事変その他世の移りの為か、昭和十一、二年頃を以て行われなくなってしまった。

この後、戦後の農地解放で社有地が大幅に縮小されて
昔の馬場などもすべて無くなってしまったようです。

江戸時代には、幕府によりこの辺は宿場(戸塚)に近い村のひとつとして
人馬を差し出す助郷(すけごう)に指定されていたということなので
そんなことからも草競馬が盛んになったのかもしれませんね。

馬頭観音碑がいくつもあったのも
そんな事情の下で馬たちの供養塔として建てられたのでしょうか。

律令制の下でも諸国の牧から馬を貢上させる制度があったようなので
もしかしたら旗競馬の起源はかなり古いんじゃないかという気もします。


感念井戸のそばに立て札つきの木がありました。
梛(なぎ)って?
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なぎ(大辞林より)
「古くから神社の境内に植えられ、熊野神社では神木とされ、その葉に供物を盛る。また、その葉が切れにくいことから、男女間の縁が切れないように、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった。」

境内の梅の花ごしの空
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(2月3日撮影)

次回は「なぜ出羽三山塔?」にもどります。
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横根稲荷神社 その1 [地域の歴史探訪]

「なぜ出羽三山塔?」にもどる前に、もうひとつ周辺情報。
横根稲荷神社について。

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鳥居の横に由来の説明があります。
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いつもひっそりと人気(ひとけ)のない境内。
この日(2月3日)も誰も見かけませんでした。

こちらが巴御前の感念井戸
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「横根の感念井戸」は役所のHPにも「泉区の民話」として掲載されています。
http://www.city.yokohama.jp/me/izumi/suishin/pdf/minwa11.pdf

地元の郷土資料をなどをみても
昔はかなりにぎわっていた神社のようです。

「よこねのいなり様」として近郷の人々の信仰を集め、
大山道を行く大山参詣者は旅の安全を祈願し、
養蚕の守護神としても知られていたため
遠方からの参詣者も絶えなかったということです。

現在の様子からは想像できませんが…。
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大山道の庚申塔 [地域の歴史探訪]

出羽三山塔の謎解きはちょっと一休み。

3つの出羽三山塔の写真を撮った日に
地図に載っていた庚申塔を続けて確認しに行きました。

3つめの出羽三山塔のあった自動車道路をそのまま東に進む(上り坂)と
交通量の多い交差点に道標を兼ねた庚申塔があります。
すぐ横に案内板も立っています。
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この庚申塔は文字がはっきりとしています。
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左面は、
中央「文化六巳年十一月吉日」(「日」は半分土台に埋まってます)
左「北八王子道」、右「西大山道」

右面は、
左「南ふじ沢」、右「東かしを」、その下の中央に「道」

参考までに、文化六年は1809年、
三つ目の出羽三山塔の天保十四年は1843年です。

大山の信仰圏が、
「県内・千葉・東京の商人・職人層をはじめ、関東地方・東海地方まで」
・・・そんなに広い範囲だったとは、これを見るまで知りませんでした。
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なぜ出羽三山塔?(2) 出羽三山とは [地域の歴史探訪]

出羽三山塔の一番上にあったマークのようなものですが、
「種子(ビージャ)」というものようです。
梵字で三山のそれぞれの権現様(神様)を表したもの。
音にすればマントラということでしょうか。

さて、今回は出羽三山について。
そもそも出羽三山とは何なのか。

三山の社名と御祭神は以下のとおり。
(山名)   (社名)               (ご祭神)
月山    月山神社(がっさんじんじゃ)   月読命
羽黒山  出羽神社(いではじんじゃ)    稲倉魂命(伊氏波神)
湯殿山  湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)大山祇神、大己貴命、少彦名命

「出羽三山神社」の公式サイトが見られれば一番良いのですが
現在メンテナンス中で、残念ながら見ることができません。

山形県のホームページより。
月山・羽黒山・湯殿山の総称である出羽三山は、第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子によって開山されて以来1400余年の歴史を持ち、古くから山岳信仰の霊山として知られている。現在でも、山伏修行や白装束姿での参拝など、羽黒派古修験道独自の宗教文化の流れを汲む祭や風習が各地に残る。
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/smile-yamagata/vol_001/6-meisyo.html

昔は三山とも山がご神体だったようですが、
現在でも神体山として信仰が残っているのは湯殿山だけのようです。
湯殿山は三山の奥の院とも称されるそうです。

出羽三山を開いた蜂子皇子についての興味深い話を見つけました。
出羽三山神社発行の「出羽三山史」に書かれていることのようです。
そちらのページの「出羽三山を開いた蜂子皇子と羽黒修験道」の一部抜粋を
以下に転載させていただきます。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/dewa3zan.htm
 古代の出羽はいわゆる蝦夷の国で、初めて田川郡が置かれたのは、天武天皇十一年(682)であるという。

 出羽三山を開いた蜂子皇子(はちこのみこ)は、三十二代崇峻天皇の第一皇子であった。しかし蘇我馬子らの横暴を避け、聖徳太子の勧めにより仏門に入り、弘海と称し旅に出る。

 推古天皇元年(593)に出羽国由良に着くと三本足の大烏が飛んできて、皇子を導き鬱蒼と茂った霊山に着いた。ここは羽黒の阿古谷であった。
 皇子は滝を前に石の上に端座すると、やがて羽黒の大神が出現し、神の云われるまま苦行を積むとさらに大神のお告げを受け、同年秋月山に登り、月山大神を拝し、さらに同十三年には湯殿山に至り、湯殿山大神の霊徳を感受した。

 皇子は、皇子を導いた三本足の大烏の羽色にちなんで、山を羽黒と名付けたと云うことである。
 蜂子皇子は不可思議な呪術をもって人々の教化を行い、病を治し、災いを除き人々から苦悩を除くという意味から「能除仙」と称せられ、また「参仏理の太子」といわれたという。
 参仏理とは身振りの意義を持つ言語で、古代呪師のようでもあり、また羽黒神が一説に玉依姫命とも伝えられており、古代巫女の面影を感ずる。


今回の岩戸開きで、月山の北西にある高倉山には
那須岳に続いて神々がご降臨されていました(ユニティ・デザインHP参照)が、
古代からのつながりがあってのことだったのですね。
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なぜ出羽三山塔?(1) 県内の伝承 [地域の歴史探訪]

どうして「出羽三山塔」なのか。

古道散策マップを見たときからの素朴な疑問です。
区のマップには「ある」ことが示されているだけで、
説明は一切ないのです(おそらくわからないからだと思いますが)。

図書館の郷土資料をちょっとだけ調べてみたけれど
出羽三山塔の建っている場所などのリストはあっても
その由来までは見つけることが出来ませんでした。

神奈川県内には数は多くなくとも結構あるようです。
いくつかの市のHPなどを見たら、だいたい数基ずつという具合。

そこで県内で出羽三山塔の由来について
何か情報がないかとさがしてみたところ・・・

平塚市のホームページには、以下のように書かれていました。
 千須谷の路傍に文化3年(1807年)造立の出羽三山供養塔があり、これには石塔造立のきっかけが伝承されています。千須谷村は水田の多くが谷戸にあり、灌漑用水は湧水や天水に頼っていました。したがって、日照りが続くと苗が植えられなることがありました。この文化3年も大旱魃があり、困り果てた村人は、代表者三名を出羽三山へ送ることにしました。おそらく、氏神社へ祈願しても大山不動へ雨乞いしても効果が無く、最後の手段として出羽三山参拝を決行した未曾有の大旱魃だったのでしょう。
 三山へお参りした代表者三名は、御神水で濡らした手ぬぐいを山伏から授けられ、「道々手ぬぐいが乾かないように、濡らしていくように」と言われました。それを忠実に守り、長い道中を旅してきた代表者が帰村するやいなや、待望の雨が激しく降り始めました。出羽三山の霊験に深く感謝した村人たちは、この供養塔を造立したのです。その後、旱魃が続くと石塔の前にゴザを敷き、雨乞い念仏を唱えるようになりました。この雨乞い念仏は近年まで行われていました。

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/zukan/sanp0201.htm

これによれば、日照りに困った庶民が雨乞いをするために、
最初に、氏神さまに祈願して、かなわず、
 → 大山不動に祈願しても、かなわず、 
 → 出羽三山参拝して手ぬぐいを持ち帰って、成就した。
そしてその後も、出羽三山の供養塔を建てて雨乞いをした、ということです。

そういうエピソードはあったのだろうけど
それが「起源」かどうかというと、ちょっと違う気がする…。
大山がダメだと、どうして遠路はるばる出羽三山へ、となるのか。

大山と富士山に見守られている生活している地だったら
もし大山に行ってダメだったら富士山、というなら疑問にも思わないのだけれど。
(まったく事情がわからない現代人としては・・・)

川崎市かわさき区の資料にちょっと有益な情報がありました。
「庚申塔と出羽三山巡拝塔」(かわさき区の宝物シート)
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/kigyoshimin/pdf/08-07.pdf

これによれば、
東北各地から関東にかけて出羽三山への信仰は広く
江戸時代には「講」を組織して遠路参詣する習わしがあったようです。

「道中の無事の祈願あるいは参詣の記念として巡拝碑や供養塔が造立された。
御尊像を奉造するものや文字を刻むもの、御詠歌をしるすものなど様々な様式があるという。」

なるほど、この説明は納得できますね。

つづく。

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富士山の右が丹沢山地、左は箱根。丹沢のちょっと三角に高くなっているところが大山。
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出羽三山塔 その3 [地域の歴史探訪]

3つ目の出羽三山塔です。

2つ目の石塔を後にして大山道を進むと、自動車道とぶつかります。
ちょうど突き当たりの畑に3つ目の出羽三山塔が建っています。
これは探している人にしか見えませんね。
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正面に書いてあるのは2つ目の石塔と同じのようです。
一番上には3つ山型に(真ん中が一段高く)なにかの紋みたいなものがあって
その下に、真ん中に「湯殿山」、少し下がって左右に「羽黒山」と「月山」。
その下(写真省略)、中央に「大権現」(権は旧字体)。
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左面には、前の石塔の右面と同様、地名が書かれています。
右の行は、「相_鎌倉郡和泉村」。二文字目が「州」ではない、「陽」のような…?
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左の行は、「天_十四年卯年」。調べてみたら、天保14年が卯年でした。

その下の方にも何か書いてあるけど読めませんでした。
石塔を建てた人の名前などかもしれません。

次は右面。
石がまだらで光が反射して読みづらく、よくわかりませんでした。
文字は割とはっきり刻まれているようなので、触ることができればわかりそう。
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「東(?)_山神・・・・・」?

一応、これで3つの出羽三山塔を確認しました。
1つ目の石塔群は、風化が激しくて何なのかわからなかったけれど、
2つ目と3つ目の石塔から想像するに、
おそらく一番大きいのが出羽三山塔なのだろうと思います。

次回は、ここ数日で自分なりに少し調べてみたことから
これら出羽三山塔の意味(なぜここにあるのか)を考察してみようと思います。
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出羽三山塔 その2 [地域の歴史探訪]

前回の場所から数十メートルのところ。
役所のマップで、道の右側にあるというのだけわかっていたので
右に注意しながら歩いていると、
駐車場とゴミの集積所の後ろに三角形で囲われた柵がありました。

左の道が歩いてきた大山道です。
グリーンのネット、掲示板の向こうがわに、三角の柵。
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道路に面した駐車場側に回って正面から。
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上の方のはよくわからない。
サンスクリット文字のようなそうじゃないような…。

その下、左右の文字より一段高く書かれているのが「湯殿」
一段下がって左に「羽黒」、右に「月山」
と読めます。
その下の文字ははっきり読めました。
「三山大権現」

「三山大権現」の左右にも5文字くらいずつ刻まれているのは
ちょっと判読できませんでした。
これは雨の日だったら読めるかも。

右面
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「相州鎌倉郡和泉村」と読めました。
このあたり、昔は鎌倉郡だったのですね。

下の方、左右に書かれている文字は
左の上から2文字「山先」ははっきりしてますが、他はわからない。
これも雨に濡れたら時なら読めそうな雰囲気です。

左面は、柵越しでは残念ながら確認できませんでした。

最初に見た石塔群は
歩きながら車をよけると触れてしまうくらいの場所にあったのに、
ここの石塔はこんなに厳重に柵に囲われているのはなぜなのでしょう。

大事にされているからかなとも思いましたが
間近に見られないように制限されているような雰囲気は
ちょっと寂しい気もします。
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出羽三山塔 その1 [地域の歴史探訪]

目の前の道路で都市ガス新設工事をしていて
朝9時からものすごい音と振動が続いています(__;)

アレルギーのせいか、熱っぽくて体中がだるいのだけれど
きょうは風もないし(花粉の影響少)ちょうどいいかと
近所の「出羽三山塔」を確認しに行ってきました。

区の「古道散策マップ」を見たときは
何度も通っている道なのにそんなのどこにあった?と思ったのですが、
やっぱり見ようとしないと見えないものがあるのですね。

だって、ここの石塔は家から歩いて2、3分のところ(^^;
どうして見えなかったんだろ?

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左の2つは崩れた石を積んであるだけのようです。
2つ目の上にのって手前に向いている石には、
名前らしきものがいくつか刻まれていました(「吉左ヱ門」など)。


一番大きい石塔は、あまりに風化していて
全面に何が書いてあるのかわかりませんでした。
左面に大きめの文字が何文字か彫ってあって
下のほうの「月」という字だけどうにか読めました。

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その左の石塔は、なにやら人の形のようなふくらみが見えます。
青面金剛のようなものなのでしょうか。
上面には手水鉢のように水がたまっていました。

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一番右の石塔も何が書いてあるのかまったくわからず。
とにかくどれも表面の風化がはげしくて…。

日射しが強くて、反射してよくわからないというのもあったので
もう少しちゃんと確かめるには
雨が降って石塔がぬれている時のほうが良いかもしれないです。

さて、地図によれば、この道(大山道)沿いのすぐそこに
もう1つ「出羽三山塔」があります。
次回。


★泉区の「古道散策マップ」は役所のHPから。
http://www.city.yokohama.jp/me/izumi/shinkou/kodomap.html
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